2020年9月4日金曜日

【file2.行き着く先は「楽しく」!!】プロJAZZトランペット奏者 喜納正香さん



 沖縄・沖縄市(旧美里村)出身、1951年生まれ。

幼少期は、祖父の弾く三線を聞いて育ち、小学校は音楽部でアコーディオンを担当。”生涯の友”であるTP(トランペット)と出会ったのは中学校時代。

戦後っ子の喜納さんの自宅に、中学校の音楽教師だった田村俊子先生が缶詰や食料を持参し、両親を説得。晴れて吹奏楽部に入部できたといいます。

現在、La'MUSE ジャズオーケストラ代表、OJAジャズオーケストラTP奏者、沖縄JAZZ協会理事長。

喜納さんの古今のトランペット話は、とにかく面白い。


Q音楽に興味を持ちはじめたのは、いつごろでしょうか?

4~5歳ごろだと思います。祖父がよく三線を弾いて聞かせてくれてね。

ちゃんとしたハーモニカも買ってくれて、うれしかった。


Q三線を弾きたいと思わなかったのですか?

それが、全く(笑)。じっと座るのが耐えきれなくて。


Q音楽に触れはじめたころの話を聞かせてください。

小学校のとき、音楽部に入ってアコーディオンを弾いたのが、音楽のはじめかな。

「TP吹いたらトーシンバイ(おたふく)になるよー」と父親から言われていましたが、6年生の春より美里中学校にTPを習いに行ってましたね。

そしたら、中学校の先生が缶詰やら食料をたくさん抱えて私の自宅にきてて。「中学生になったら、ぜひバンド部に入ってね」と、部活の勧誘をされて。

今でも覚えています、田村俊子先生でした。田村先生がいなかったら、僕はTPをやってなかったかもしれないなぁ。先生には感謝しています。


Qでは、TPはそのころからですか?

ええ。中学にあがったら、勧誘をしてくれた通りにバンド部に入りまして。

1年生のときはアルトホルン。2年生になってようやくTP。

その当時、沖縄はアメリカの統治下時代だったから、米軍の払い下げ楽器がいっぱいありました。本国に帰る米軍がたくさん楽器を寄付してくれた。

だから外国からの洋楽器は、日本国内でも沖縄はダントツに早く手に入ることができた。

そのころは、国内にはない楽器が沖縄にたくさんあったんじゃないかなぁ。とても恵まれていましたね。

中学校時代は、コザ高校の演奏会を聞いて耳コピーをして、文化祭で「闘牛士のマンボ」を吹いて。sax(サックス)、TP、Tb(トロンボーン)などで金管アンサンブル。楽しかったなぁ。

3年生からは部長でした。その頃からバンドリーダーとしての気質がつくられたと思う。

でも中学校の一番の思い出といえば、3年生の冬に琉球大学で行われた「ソロコンテスト」に出場し、「出舟」を演奏したこと。

銅賞でしたけど、私のTPへの情熱はここから火がついた。

あと、中学校~高校は背が低くて丸坊主だったので、女子にキャーキャー言われたり可愛がられりね(笑)。

           

Q高校生のときは、もうTPに夢中の夢中でしたか?

その通り(笑)。

コザ高校に進学し、そのまま吹奏楽部に入部しました。「フィンランディア」や「オリンピックマーチ」などを演奏したのを覚えています。

2年生の時の吹奏楽コンクールは、チューバの楽器を吹く人がいなかったもんだから、クラスの友達に「吹けなくてもいいから、座っとくだけでいいから!」とカカシをお願いして、コンクール出場をしました(笑)。

3年生になったら部長。

私のTP人生は、高校卒業と同時に一旦休止。それから5年間は吹いていませんでした。


Qえ?その間は何をしていたんですか?

昼はボート屋のバイト、夜は酒屋さんのバイト(笑)。若かったから、スピードボートにハマってね。

夜は、お酒やビール樽をクラブなんかに配達してました。クラブ「エンパイヤ」に配達にいくと、ガラス越しに故山里将聖さん(Tb)の演奏を聞けてね。楽しかったよ。

そのころ、月給120ドルもらってたんだけど、その頃は公務員の月給は60ドル。私は2倍ももらってた。金はあったから、しょっちゅう遊んでばかりでした(笑)。


Q音楽を仕事としてはじめたきっかけを教えて下さい。

新聞に文教楽器の求人が出ていたから、応募したんです。金曜日に電話したら、「明日面接にきてください」といわれてね。

友達が「面接頑張れ!」と激励会してくれて、酒飲んだりボーリングして。翌日は、二日酔い状態で翌日の面接に行きました(笑)。でも「明日から仕事来れる?」と言われて、すぐ翌日から出勤した。

そしたら仕事やっているうち、「TP吹きたい」と思うようになってさ。

そこからまたTPを吹きはじめたんです。

                       

                     

             

Q仕事での思い出といえば何でしょうか?

金管バンドを本格的に沖縄に広めたことです。今、沖縄で行われている「沖縄県小学校金管バンドフェスティバル」は、私が立ち上げた発起人なんです。


Qえっ?凄すぎます。

まずは、沖縄の各学校に16mmの映写機を持っていって、金管楽器の紹介と普及をしてね。どこの学校でも「こんな楽器があるんですか?」と、先生方に驚かれましたよ。

技術UPのために、本土から一流プレイヤーを招いて、こども向けの講習会を行ったりね。そして、海邦国体の前年にはじめて「金管フェスティバル」を実施。

第1回の参加校は、美里小学校、越来小学校、中城小学校の3校でした。私もバンド指導に入って、3年ぐらい経ってかな?同フェスティバルが軌道にのってきました。

マーチングライセンスも取得して、各小学校のバンドを本格的に指導していました。

指導しているうち、いつの間にか私もトロンボーン,ユーフォニアム、チューバと金管楽器は全部吹けるようになったよ(笑)。

           

Qジャズを吹きはじめた頃の話をきかせてください。

1975年に「SWING HERD ORCHESTRA(以下、「スウィングハードオーケストラ」)」に加入しました。楽器関係のツテで私にも話がまわってきて、「JAZZ面白そうだなぁ!」と即入団。名前のごとく、ハードなバンドでした(笑)。

JAZZ喫茶「ファイブスポット」でのライブが、私の「JAZZデビュー」です。

スウィングハードオーケストラは専属のアレンジャーがいて、曲がとにかく良かった。曲に惚れて私は25年も所属していたんです。アレンジャーは、「東京キューバンボーイズ」でTPを吹いていた方でしたよ。


Q思い出に残る出演コンサートといえば!

1989年に、比謝川の上流にホタルが寄生するよう支援する運動の一環として、地域の皆さんや支援団体などと一緒に、沖縄こどもの国で「ジンジン・フェスティバル」を行いました。

イベントでの演奏は全般JAZZ。演奏は私が所属する「スウィングハードオーケストラ」をメインとして、JAZZバンドが代わりがわりに出演。売上金(入場料)は全てこどもの国に寄贈しました。

あと、スウィングハードオーケストラのコンサートで、TP奏者のエリック・ミヤシロさんをお招きしたのが強烈な思い出です。

沖縄にルーツを持つ方ですが、彼が沖縄でコンサート出演するのは初めてでしたから、沖縄市民会館のお客さんがいっぱい見にきてくれた。

私はまた、彼のルーツにつながるところにエリックさんをお連れして。とっても喜んでくれましたよ。

               


Q 沖縄最高峰のジャズ楽団「OJAジャズオーケストラ」に加入のきっかけは?

1998年にOJA(沖縄ジャズ協会)の副会長だった故山里将聖さんに呼ばれて、「寓話」(那覇)での練習兼本番に初参加させてもらったんです。それがはじめて。

それからOJA事務局長、中部支部長、OJA副理事長を経て2018年から理事長。

                                             

Qご自身のビッグバンド「La'MUSE(ラミューズ)ジャズオーケストラ)」を発足するきっかけについてぜひ!

2000年にスウィングハードオーケストラを脱退したのですが、その年の12月に元バンド仲間の忘年会がありましてね。そこで、話が盛り上がって翌月1月13日に名無しバンドとして練習をはじめたんです。それが実質ラミューズの初練習。

あの時に練習に参加した人は、今誰も残っていないなー(笑)。

「La'MUSE(ラミューズ)」はギリシャ神話の「ムーサ」という芸術の女神から命名。saxの山内さんが名付け親です。

バンドのモットーは「楽しもうや!大人の音楽」。これからも楽しんで続けていきたいです。


Q TPを吹くときに大切にしていることは何ですか?

「いかにラクにどうやって吹くか」。

がむしゃらに吹いていたときもありますが、行き着く先は「楽しく」。

尊敬しているあこがれのTP奏者は、「ニニ・ロッソ」です。

Q今後やっていきたいことを教えてください。

21世紀のこどもたちを良いプレイヤーに育てていきたいです。

こどもが好きなんです(笑)。

これまでも長年こどもの演奏の支援をしてきましたが、これからも同じ。特に小学校4年~中学2年生のジュニアバンドを、海外も視野にして持っていきたい。

こどもは伸びるのが早いですし、こどもの吹いている姿や成長している姿を見るのが楽しいんです。

中学生の時にソロコンテストで吹いた「出舟」からはじまったTP人生。

”僕にはトランペットしかない。

これまでもこれからも My Life is TP”