2021年4月30日金曜日

【file3.音楽は音と心のふれあい】~プロJAZZドラム奏者 上原昌栄さん

 


JAZZドラム奏者 上原昌栄さん 

沖縄県・那覇市通堂町出身、昭和10年生まれ。




私は、8人きょうだいの長男です。姉3人、妹3人、弟1人。

 父は東京の警察庁警察官(10余年勤務)出身です。

私は、母の実家の那覇市通堂町の神山旅館に住んでいましたので、私もそこで生まれ、(那覇)天妃小学校小学3年生の1学期まで那覇にいました。

戦争の避難先として、祖母(父方)がいる国頭村比地に移り住みました。転校先の辺土名小学校奥間分校の茅葺き教室のすぐ前には、きれいなせせらぎがあり、見事な祭温松が囲んでいました。


Q音楽のはじめを教えてください。

私の音楽のはじめは、草笛(くさぶえ)。小学生の時は、そこら辺の道端の草で草笛を作って、学校帰りに草笛ふきながら帰りました。それが、私の音楽のはじめ。

父が古典音楽をやっていたので、物心付く前から常に音楽が私の側にあった。父から直接三線を習ったのは高校生からですが、父の影響が大きいですよね。

あと天妃小学校在学時に、毎朝の朝礼の国旗掲揚の時は、外間永律先生がトランペット(以下、TP)を吹きましてね、私はいつもその音に魅了されていた。だからいつの日か、「いつか先生のようなTP奏者になりたいなぁ」と夢見ていました。



Q戦争経験者なのですね。

はい。私が小学校3年生のときに戦争がはじまって、4年生のときに戦争が終わった。

私は小学校3年生の1学期までは那覇の天妃小だったので、母の実家の神山旅館の一部を借りて家族で住んでいました。建物1階の角でしたよ。

劇場が2つあって、船がよく来る場所だったから、旅人がよく泊まりに来ていました。たくさん旅館が立ち並ぶところで、それぞれのムラ(市町村)の出身者の同郷同士で経営していたように思います。 

(戦争が)「今度は日本に来るぞー」ということになって、避難するため、私とすぐ上の姉2人は、家族より先にやんばる(沖縄北部)に避難しました。

やんばるの国頭村比地には祖母(父方)が住んでいたので、そこに避難するため、姉2人と僕は家族より早目に那覇から出ました。あの頃は飛行機に乗れる時代じゃないから、みんな船。

でも船は国頭には着かないから、歩いたり、トラックに拾われたりして、どうにか自力で やんばるに着きました。


戦争のことは、よく覚えていません。

ハブ、イノシシより戦争の方が怖かったのは覚えています。

国頭の上空を飛行機が飛んでいて、日本兵だと思ってワーイと応援したら、家を撃ってきた。畑・田んぼの真ん中に外国人の立派な家があったから、それを攻撃したんです。

軍の何かの施設と思われたかもしれんね。他の民家とかは攻撃せず、また飛んで行きましたよ。


私たち家族は、最初は、シマンホーヤーの茶畑で避難生活をしていましたが、米軍が来たので、茶畑を離れてさらに深い山奥に避難しました。父から「命の次に大切な二丁入りの三味線箱」を守るように言われていまいた。

 4月~6月は、国頭の与那覇岳や比地山の中で親の後を追いながら逃げ回りました。はだしでしたね。

水は、森の中だから豊富でした。食べ物は、早朝か夜遅く、姉と母が芋掘りに行きました。「正栄は捕まるから隠れていなさい」と言われていました。兵隊は、子どもと女性は見逃してくれた。

国頭中学校時代(資料提供:上原昌栄さん )※以下同様


Q戦後の音楽生活はどうでしたか?

小学校の音楽の時間は「コールユーブンゲン」を中心に習いましてね。それが私の音楽の基本をつくりました。

中学校では草笛隊やハーモニカ隊に入りました。金管楽器などは何もありませんでしたが、やんばるの自然には楽器(草笛)がどこにでもあった。草笛音楽隊は運動会を大いに盛り上げましたよ。この音楽隊の経験が、私の「楽隊」としての音楽人生のはじまりです。

私たちの学校の校舎の中には、米軍払い下げの折りたたみ式オルガンが1台ありました。学校唯一のオルガン。知花芳子先生に唱歌、合唱を教わりました。

今でも鮮明に覚えているのは、辺土名地区中学校音楽祭に出場し、「サンタルチア」、「花」を歌ったことです。あの時はじめて、会場の辺土名高校で「グランドピアノ」というものを見た。


Qドラムの話がなかなか出てきませんが、まだまだ先ですか?

はい、まだ先です(笑)。高校は辺土名高校に入学しまして、ブラスバンド部に入部しました。米軍払い下げの楽器の中に憧れのトランペットを見つけ、先生にお願いしたのですが、結局トロンボーンになりました。


Qまさかのトロンボーン!(笑)。ドラムの昌栄さんから想像も付きません!

高校1年の2学期から那覇高校に転校し、ブラスバンド部に入部しました。今度こそTP(トランペット)に当たると思ったんですが、またトロンボーン(笑)。3年生になってようやくTP。

ブラスバンド部で、琉球大学主催の全琉高校ブラスバンドコンテストに出場しましたら、3年連続1位を獲得しました。私も、友利寛長先生のピアノ伴奏でトランペット独奏をしました。

ブラスバンドの楽器は、全て米軍の払い下げ。Tb(トロンボーン)、TPSAX(サックス)の楽器がありましたね。

当時、ブラスバンド部には卒業後プロになった1年先輩の大嶺正夫、又吉眞達、高江洲朝順らがいましね、同期は友寄隆生、小浜健、山川高宏、岸本直、宮平知徳、平良梯子。1つ下の学年には新崎純、石嶺弘實、金城吉雄などがいて、全盛を誇っていた。




Q JAZZのはじめは、この頃ですか?!

そうですね、今みたいなJAZZをやりはじめたのは、高校2年生のときです。

ブラスバンド部の先生、兼村寬俊先生の「兼村音楽学校」に1年通って作曲を学んだり、先生の勧めで(米)軍クラブのバンドのコンボ(少人数演奏)でプレイ(演奏アルバイト)をするようになりました。

「楽器は何でもいいから、ただ楽器を構えるカカシでいい」と言われて、兼村先生がバンマス(バンドマスター)を務める「キングバンド」にギターで入団したのが最初。学校でギターを習っていたから、ギターは少しは弾けていた。

3年生で念願のTPになってからは、1st(1番の高音担当)TPは、故香村弘史さんでした。故香村英史氏の父です。私は2ndのTP。香村弘史さんは、軍楽隊出身の先輩ですから、ときどき私は音ミスをすると足を蹴られたりして、軍隊式でバンドマンとしての基礎を学びましたね。


Qトロンボーンにトランペット、ギター。器用ですね!

先生に言われるままやっていただけです(笑)。先生も、みんなの唇や手や身長などを見て楽器を決めていたと思います。

私たちは、1夜で2ヶ所の仕事が入るときはバンドも二手に分かれたのですが、ある日、兼村先生が「TPは1人でも間に合うからドラムの席に座っていなさい」と私に言いましてね。はじめてドラムの席に座った。


Qあ、ようやくドラム!(笑)

はい。兼村先生から「ドラムの音は出さないでいい。カカシ(座っているだけ)でいいから」と言われましたが、勝手にドラムを叩いたら「TPより素質あるね」と先生に褒められましてた。その一言が僕を本気にさせた。それからずっとドラム。

幼稚園~小学校低学年のころ村芝居なんかで島太鼓を叩いていたから、リズム感があったんでしょうね。僕のドラムは、今でもJAZZのスウィングと島太鼓が共鳴している。

そのころ、琉球ホテルやコパカバーナNCOクラブ、マチナトサービスクラブなんかで演奏しましたが、学校のバンドのドラム(パーカッション)はみんな女生徒。だから私は学校ではドラムをやっていません。僕はドラムを直接誰からも習ったことはない。

フィリピンのミュージシャンや、技術導入のために日本本土から来たミュージシャンの叩く姿を見て、自分で学びました。


牧港サービスクラブにて



那覇高校時代


 Q那覇高校だったんですね。

はい。高校のバンドは、学年ごとにバンドを結成していました。

米軍での演奏は、夜の8~10時の3ステージ。翌日は学校ですから、皆が登校する前の早朝からブラスバンドの練習をした。若いから体力がありましてね、全然眠くなかった。


軍バンドで稼いだお金は、三線を買ったり、姉の学費にしました。 

姉が「本土の美容師学校に行きたい。でもお金がないと行けない」って言っていたもんだから、「僕が稼ぐから」と言って、アルバイト代を渡したんです。

姉は、学校を終えて帰沖したら美容室をOPENさせましてね。その時の従業員が、僕の妻(笑)。


Qあら!(笑)。そのあとはJAZZ世界にどっぷりでしょうか?

 はい。高校卒業後はすぐJAZZドラム人生にまっしぐら。卒業してすぐ「クラブ大宝」で本格的にJAZZデビューしまして、翌年からクラブオリオン。

どこかに所属とかじゃなくて、2、3ヶ月でバンドが変わったり、店からバンドがクビになったら他バンドに行って、という生活。

幾つかのバンドを世話するマネージャーがいたので、その人が僕の次のバンドを探してくれた。

あの頃は携帯電話なんてありませんから、マネージャーの家に各バンドバスター(以下、バンマス)が出入りして、話し合いをしていました。今でいう音楽事務所みたいな感じでしょうね。

 


QプロJAZZをはじめたころの話をもう少し聞かせてください。

僕のJAZZは、最初はコンボ。楽譜は無かったですね。

「いつかフルバンドでやりたい」という夢があったので、バンマスや周りの人に「お願いします」と頼んでいた。そしたら、フルバンドのドラム奏者(ドラマー)が病気になって欠員が出たから、入れました。

フルバンドは、フィリピンバンドや本土のバンドとか色々ありましたが、楽譜があった。


そのころ、日本から有名なジャズメン(男性JAZZ演奏家)がイベント公演で来沖にやってくることも多かったですね。大スターのドラマー・白木秀夫のグループがグランドオリオン劇場で公演後、ジャムセッション(即興で音楽交流)が行われ、私もドラムを叩きました。

懇親会で酒を酌み交わしているときに、ピアノの八城一夫さんから「東京に出てきませんか。あなたの腕なら十分やっていけます」と誘われましてね。日本を代表するジャズマンに認めてもらったことは、この上ない私の喜びでした。

だが、もうその時には結婚して家族も子供もいて、沖縄のジャズ界で後輩を育てる義務もあるし、沖縄にいても最高のジャズができることを証明したくて「考えさせてください」と言い、結局、断った。

あのとき東京に行ってたら、私の人生は大きく変わったかもしれないですね。

私は25歳で結婚したのですが、いま、6名子供(女3人・男3人)、孫15人ぐらい、ひ孫は1人います。


 

 Q復帰後は、バンドマンはキツかったとお聞きします。

そうですね、復帰後、米軍が本国に帰り、各米軍クラブがなくなったから私達の演奏もなくなった。仕事場はホテルや喫茶、ライブハウス、ホテルラウンジ等に移りました。

でも夜は週に2~3回ドラム叩いてましたよ。昔は、カラオケのBGMは生バンドがやっていましてね。キャバレー、カラオケハウスなどで演奏していました。

 でもそれだけでは食べて行けないもんだから、昼は色々やってきました。

国頭の仲間がやっていた味噌の卸屋で働かせてもらったり、独立して自分の味噌の会社「早川商事」をOpenさせましてね。5~6年はやりましたかな。「美味しい」と評判を頂いたが、いろんな味噌が本土からやってきて、競争に負けて店を閉めた。

そのあと2年ぐらい、那覇の曙、海の近くのレストランをやりました。それからまた2年はタクシー運転手。妻の兄がタクシー会社の役員だったもんだから。

 

Q昌栄さん、たしか三線も凄いですよね。

(受賞歴を前説)

昭和54年 野村流伝統音楽協会師範上原正光先生の「上原正光古典音楽研究所」に入門。

同年、琉球古典音楽芸能コンクール新人賞受賞。昭和63年、同コンクール優秀賞。

平成4年 野村流伝統音楽協会より教師免許状を受賞。平成15年に同協会師範免許受賞。

平成11年 琉球新報古典音楽芸能コンクール最高賞受賞

平成21年 沖縄タイムス芸術選賞功労賞受賞

平成25年 野村流伝統音楽協会功労賞受賞

平成30年 沖縄県文化功労者賞受賞 


高校生のときにはじめて父親から三線を習いまして、平成10年ごろから自分の三線教室「上原昌栄古典音楽研究所」を開きました。最初の生徒は、同じタクシーの仲間。それから友達を中心に1人、2人と増えて、15人ぐらいはいたかな。今は10人。


あれから、昼は三線、夜はドラムの生活に落ち着きましたね。

三線を通じて、これからも先輩達が残してきた沖縄の三線の素晴らしさを継承していきたいです。

沖縄県文化功労者賞を受賞




沖縄タイムス芸術選賞功労賞受賞時の写真


世界に誇る琉球伝統音楽とジャズ音楽とのコラボレーションができる私は、世界一幸せと思います。

1979年から琉球古典音楽を本格的に学び、以来、古典音楽とジャズの融合を目指して音楽に取り組んできました。このコラボレーションが実現した公演は、「アジア太平洋民族音楽祭」inシンガポール(日本代表)、「ジャズイン浦添」、「上原昌栄音楽の道50年」(那覇市民会館)などがあります。




Q三線とドラムに共通していることはありますか?

共通しているのは「音楽の楽しさ」です。

人が喜んでくれる気持ちが楽しい。



75歳にて初アルバム「ウチナービート」をリリース

全国紙にも掲載されました



Q昌栄さんにとってドラムとは?
人生に欠かせないもの。

リズムで音楽ができて、一緒にプレイする人たちと気持ちが融合する。

音楽が出来ていることが、ただただ嬉しい。




音楽生活50年を記念してコンサートを開催

音楽は音と心のふれあい

 

Q他にも読者の皆様に何か伝えたいことはありますか?

これはぜひ書いて下さい。

クラリネット奏者のスタンリーは、20年ぐらい一緒にやっていますが、彼は最初、寓話(ジャズ店)でクラシックをやっていたんです。「JAZZをやりたい!」というもんだから、一緒にやるようになった。

 



外国人との音楽は楽しいですよ。

それぞれの国の持ち味もあるし、人の持ち味も音楽に出る。

国は違うし、音楽の解釈も違うはずだけど、一緒にやっている一体感がたまらない。

「音と音がつながりあう」ことが気持ちいいですね。

音楽は音と心のふれあい、と思いますね。


QJAZZの魅力を一言で表すと?

「自分が楽しめて聞いている人も楽しめる」こと。

これからも、聞いている人が楽しんでくれる音楽を奏で続けたい。


これまでもこれからも、

沖縄の伝統を生かした「ウチナージャズ」を追求していきたいです。



【参考】デビュー時を中心とした上原昌栄さんJAZZ歴史〈略歴〉

1953 「キングバンド」で米軍クラブにはじめて出演

1955 ドラマーとして一人立ちするために「キングバンド」退団。クラブ「大宝」(旧三越地下)に入団

1956 コロンビアバンド入団

1957 高岡氏のバンドに入団。バンド「ジョーカースクインテット」結成。

1958 クラブオリオン出演。借金をしてはじめて自分のドラム一式を購入。

1959 マチナトNCOクラブのバンド「スターライターズ」に呼ばれる。

「サーフサイド」、「NCOクラブ TOP3」、「EBBE TIDE CLAB」に1週間のローテーションで出演

1960 「ブルーノート」バンドでV.F.Wオーディションを受け、見事合格。V.F.Wクラブ専属バンドへ。

1998 第1回音楽ユニオン沖縄くもじコンサート出演、与世山澄子リサイタル参加、「ジャズイン浦添」出演

1999 スウイングジャズライブ「バナナハウス」出演、軽井沢演奏旅行(古堅雄三とエスクァイヤーズ)

2000 ライブハウス「てんとう虫」出演、サミット関連コンサート出演

※1998年~現在まで、約年8回~10回の大規模なコンサートに出演


【file2.】行き着く先は「楽しく」~プロJAZZトランペット奏者 喜納正香

【file.1音楽は第一に自分が楽しむ!】~プロSAX奏者 前田妙子さん

このブログの管理人(小鍋悠)



2020年9月4日金曜日

【file2.行き着く先は「楽しく」!!】プロJAZZトランペット奏者 喜納正香さん



 沖縄・沖縄市(旧美里村)出身、1951年生まれ。

幼少期は、祖父の弾く三線を聞いて育ち、小学校は音楽部でアコーディオンを担当。”生涯の友”であるTP(トランペット)と出会ったのは中学校時代。

戦後っ子の喜納さんの自宅に、中学校の音楽教師だった田村俊子先生が缶詰や食料を持参し、両親を説得。晴れて吹奏楽部に入部できたといいます。

現在、La'MUSE ジャズオーケストラ代表、OJAジャズオーケストラTP奏者、沖縄JAZZ協会理事長。

喜納さんの古今のトランペット話は、とにかく面白い。


Q音楽に興味を持ちはじめたのは、いつごろでしょうか?

4~5歳ごろだと思います。祖父がよく三線を弾いて聞かせてくれてね。

ちゃんとしたハーモニカも買ってくれて、うれしかった。


Q三線を弾きたいと思わなかったのですか?

それが、全く(笑)。じっと座るのが耐えきれなくて。


Q音楽に触れはじめたころの話を聞かせてください。

小学校のとき、音楽部に入ってアコーディオンを弾いたのが、音楽のはじめかな。

「TP吹いたらトーシンバイ(おたふく)になるよー」と父親から言われていましたが、6年生の春より美里中学校にTPを習いに行ってましたね。

そしたら、中学校の先生が缶詰やら食料をたくさん抱えて私の自宅にきてて。「中学生になったら、ぜひバンド部に入ってね」と、部活の勧誘をされて。

今でも覚えています、田村俊子先生でした。田村先生がいなかったら、僕はTPをやってなかったかもしれないなぁ。先生には感謝しています。


Qでは、TPはそのころからですか?

ええ。中学にあがったら、勧誘をしてくれた通りにバンド部に入りまして。

1年生のときはアルトホルン。2年生になってようやくTP。

その当時、沖縄はアメリカの統治下時代だったから、米軍の払い下げ楽器がいっぱいありました。本国に帰る米軍がたくさん楽器を寄付してくれた。

だから外国からの洋楽器は、日本国内でも沖縄はダントツに早く手に入ることができた。

そのころは、国内にはない楽器が沖縄にたくさんあったんじゃないかなぁ。とても恵まれていましたね。

中学校時代は、コザ高校の演奏会を聞いて耳コピーをして、文化祭で「闘牛士のマンボ」を吹いて。sax(サックス)、TP、Tb(トロンボーン)などで金管アンサンブル。楽しかったなぁ。

3年生からは部長でした。その頃からバンドリーダーとしての気質がつくられたと思う。

でも中学校の一番の思い出といえば、3年生の冬に琉球大学で行われた「ソロコンテスト」に出場し、「出舟」を演奏したこと。

銅賞でしたけど、私のTPへの情熱はここから火がついた。

あと、中学校~高校は背が低くて丸坊主だったので、女子にキャーキャー言われたり可愛がられりね(笑)。

           

Q高校生のときは、もうTPに夢中の夢中でしたか?

その通り(笑)。

コザ高校に進学し、そのまま吹奏楽部に入部しました。「フィンランディア」や「オリンピックマーチ」などを演奏したのを覚えています。

2年生の時の吹奏楽コンクールは、チューバの楽器を吹く人がいなかったもんだから、クラスの友達に「吹けなくてもいいから、座っとくだけでいいから!」とカカシをお願いして、コンクール出場をしました(笑)。

3年生になったら部長。

私のTP人生は、高校卒業と同時に一旦休止。それから5年間は吹いていませんでした。


Qえ?その間は何をしていたんですか?

昼はボート屋のバイト、夜は酒屋さんのバイト(笑)。若かったから、スピードボートにハマってね。

夜は、お酒やビール樽をクラブなんかに配達してました。クラブ「エンパイヤ」に配達にいくと、ガラス越しに故山里将聖さん(Tb)の演奏を聞けてね。楽しかったよ。

そのころ、月給120ドルもらってたんだけど、その頃は公務員の月給は60ドル。私は2倍ももらってた。金はあったから、しょっちゅう遊んでばかりでした(笑)。


Q音楽を仕事としてはじめたきっかけを教えて下さい。

新聞に文教楽器の求人が出ていたから、応募したんです。金曜日に電話したら、「明日面接にきてください」といわれてね。

友達が「面接頑張れ!」と激励会してくれて、酒飲んだりボーリングして。翌日は、二日酔い状態で翌日の面接に行きました(笑)。でも「明日から仕事来れる?」と言われて、すぐ翌日から出勤した。

そしたら仕事やっているうち、「TP吹きたい」と思うようになってさ。

そこからまたTPを吹きはじめたんです。

                       

                     

             

Q仕事での思い出といえば何でしょうか?

金管バンドを本格的に沖縄に広めたことです。今、沖縄で行われている「沖縄県小学校金管バンドフェスティバル」は、私が立ち上げた発起人なんです。


Qえっ?凄すぎます。

まずは、沖縄の各学校に16mmの映写機を持っていって、金管楽器の紹介と普及をしてね。どこの学校でも「こんな楽器があるんですか?」と、先生方に驚かれましたよ。

技術UPのために、本土から一流プレイヤーを招いて、こども向けの講習会を行ったりね。そして、海邦国体の前年にはじめて「金管フェスティバル」を実施。

第1回の参加校は、美里小学校、越来小学校、中城小学校の3校でした。私もバンド指導に入って、3年ぐらい経ってかな?同フェスティバルが軌道にのってきました。

マーチングライセンスも取得して、各小学校のバンドを本格的に指導していました。

指導しているうち、いつの間にか私もトロンボーン,ユーフォニアム、チューバと金管楽器は全部吹けるようになったよ(笑)。

           

Qジャズを吹きはじめた頃の話をきかせてください。

1975年に「SWING HERD ORCHESTRA(以下、「スウィングハードオーケストラ」)」に加入しました。楽器関係のツテで私にも話がまわってきて、「JAZZ面白そうだなぁ!」と即入団。名前のごとく、ハードなバンドでした(笑)。

JAZZ喫茶「ファイブスポット」でのライブが、私の「JAZZデビュー」です。

スウィングハードオーケストラは専属のアレンジャーがいて、曲がとにかく良かった。曲に惚れて私は25年も所属していたんです。アレンジャーは、「東京キューバンボーイズ」でTPを吹いていた方でしたよ。


Q思い出に残る出演コンサートといえば!

1989年に、比謝川の上流にホタルが寄生するよう支援する運動の一環として、地域の皆さんや支援団体などと一緒に、沖縄こどもの国で「ジンジン・フェスティバル」を行いました。

イベントでの演奏は全般JAZZ。演奏は私が所属する「スウィングハードオーケストラ」をメインとして、JAZZバンドが代わりがわりに出演。売上金(入場料)は全てこどもの国に寄贈しました。

あと、スウィングハードオーケストラのコンサートで、TP奏者のエリック・ミヤシロさんをお招きしたのが強烈な思い出です。

沖縄にルーツを持つ方ですが、彼が沖縄でコンサート出演するのは初めてでしたから、沖縄市民会館のお客さんがいっぱい見にきてくれた。

私はまた、彼のルーツにつながるところにエリックさんをお連れして。とっても喜んでくれましたよ。

               


Q 沖縄最高峰のジャズ楽団「OJAジャズオーケストラ」に加入のきっかけは?

1998年にOJA(沖縄ジャズ協会)の副会長だった故山里将聖さんに呼ばれて、「寓話」(那覇)での練習兼本番に初参加させてもらったんです。それがはじめて。

それからOJA事務局長、中部支部長、OJA副理事長を経て2018年から理事長。

                                             

Qご自身のビッグバンド「La'MUSE(ラミューズ)ジャズオーケストラ)」を発足するきっかけについてぜひ!

2000年にスウィングハードオーケストラを脱退したのですが、その年の12月に元バンド仲間の忘年会がありましてね。そこで、話が盛り上がって翌月1月13日に名無しバンドとして練習をはじめたんです。それが実質ラミューズの初練習。

あの時に練習に参加した人は、今誰も残っていないなー(笑)。

「La'MUSE(ラミューズ)」はギリシャ神話の「ムーサ」という芸術の女神から命名。saxの山内さんが名付け親です。

バンドのモットーは「楽しもうや!大人の音楽」。これからも楽しんで続けていきたいです。


Q TPを吹くときに大切にしていることは何ですか?

「いかにラクにどうやって吹くか」。

がむしゃらに吹いていたときもありますが、行き着く先は「楽しく」。

尊敬しているあこがれのTP奏者は、「ニニ・ロッソ」です。

Q今後やっていきたいことを教えてください。

21世紀のこどもたちを良いプレイヤーに育てていきたいです。

こどもが好きなんです(笑)。

これまでも長年こどもの演奏の支援をしてきましたが、これからも同じ。特に小学校4年~中学2年生のジュニアバンドを、海外も視野にして持っていきたい。

こどもは伸びるのが早いですし、こどもの吹いている姿や成長している姿を見るのが楽しいんです。

中学生の時にソロコンテストで吹いた「出舟」からはじまったTP人生。

”僕にはトランペットしかない。

これまでもこれからも My Life is TP”


2020年8月29日土曜日

【file1. 音楽は第一に自分が楽しむ!】~プロsax奏者 前田妙子さん

 

滋賀県出身、プロsax奏者前田妙子(まえだ・たえこ)さん。

保育園生ごろにエレクトーンをはじめ、今やsax(サックス)人生の真っ最中。

エレクトーンも水泳も楽しんでいた活発な女の子が、小学校でTP(トランペット)を吹きはじめ、中学校の時にはじめてsaxを担当。

「カッコいいなぁ!」と憧れていたsaxで中学・高校時代を過ごし、音楽大学を経てプロ進出。

「ミ・べモル サクソフォンアンサンブル」のメンバーとして華麗に国内外で演奏活動後、沖縄に移住。

「YAMHAミュージックレッスン」(那覇市)など各sax講師のほか、ご主人が経営する「Live Music Bar SOUND M'S」でスタッフとして勤務。

「OJA JAZZ ORCHESTRA」「真栄里英樹BIG BAND」「YKシンギンオーケストラ」在籍。

現在、ミュージシャンと講師と2児の母として生きる前田さん。

音楽と出会った幼少期から今までの音楽人生を振り返ります。

Q音楽をはじめた頃の話をきかせてください。

保育園生ごろからエレクトーンをはじめましたが、母親が幼稚園の先生だったので、その影響もあるかもしれません。
そのころは、YAMAHAでエレクトーンを習い、水泳にも通い、という生活を送っていましたね。エレクトーンアンサンブルの関西大会に出場したことを今でも覚えています。
1人で弾くより皆で弾くのが楽しかったです。

エレクトーンも水泳も中学生くらいまで続けていましたが、エレクトーンは、いつもサボることしか考えていませんでした(笑)。


(前列左端)小学校5年生時の前田さん。


Qサックスをはじめたきっかけは?
三雲小学校4~5年生のころ、金管バンド部でTPを吹いていたんです。
でも、6年生になってすぐ「家庭クラブ」にも入ったりして。
祖母が編み物が上手だったので、課題の大半は祖母がやってくれました(笑)。

甲西中学校では吹奏楽部に入部し、saxを担当しました。
saxを選んだのは、友達がフルートやクラリネットを吹きたがっていたので、彼らと争いたくなかったから(笑)。
でもテナーsaxのことは「カッコいい楽器だなぁ」と思っていました。


小学校でTPを吹いていたのでTPも勧められましたが、何か他の楽器もやりたくて、saxにしました。中学校では、しっかり3年間まじめにがんばりました。

甲西中学校吹奏楽部は、部員は40名ぐらい。コンクール等で目覚ましい成果はあげられませんでしたが、小学校での金管アンサンブルとはまた違って、皆で切磋琢磨にsaxアンサンブルをやったのが、とても楽しかったです。


Qじゃぁ、高校もそのままsaxに熱中?
いえ、甲西高等学校に入学したときは、吹奏楽部に入るのは迷いました。
120名の大所帯バンドだったし、マーチングをやっていたので、体を動かすのがどうも苦手だった。水(水泳)はいいけど、陸は・・(苦笑)。

結局入部しましたが(笑)、今度は楽器が足りなくて。
1年生の夏に、今でも使っているテナーsaxを親に買ってもらいました。

各楽器パートにトレーナーがいまいたが、私はそれにプラスして2年生ごろから自主的にレッスンに通いました。先生は、プロsax奏者の由本明子先生。
足繁くレッスンに通っているうち、先生から音大をすすめられたので、2年生の後半から音大に行くためのレッスン通いをはじめました。

当時、県内でまともにマーチングをやっていた高校は甲西高校ぐらい。人気な吹奏楽部だったので、定期演奏会(以下、定演)をすると、すぐにチケット完売。
定演を見た人から、コンクール会場で声をかけられるようになり、嬉しかった~。

3年生にあがったらコンサートミストレスを担当し、何かの演奏会で「イン・ザ・ムード」のソロを演奏したら、ゲストだったジョージ川口さん(プロドラマー)に「音楽続けなさいよ~」と声をかけられたのを、今でも覚えています。



Q音大を意識していた高校3年生の頃といえば?
音大の入試対策ばっかりでしたねぇ。
音大の入試はアルトサックスのみだったので、アルトサックスを親に買ってもらい、高校3年生の途中から、由本先生に紹介された前田昌宏先生のもとで必死に音大対策。
最初のレッスンで、いつも自分がやっていたスケール練習を吹いたら「なぜそのテンポでやってる?」と怒られました(笑)。
自分では吹けていたつもりが、全然だった。レッスンでは、知らないことがおおすぎてビックリの連続でした。刺激的な時間でしたね。

また、高校3年生の終わりに、滋賀県代表として、姉妹都市の米国ミシガン州に演奏に行きました。海外に行ったのは、あれがはじめて。
高校生を集めたバンドだったのですが、ミシガン州での演奏~USJ~ディズニーという夢の体験をさせてもらいました。

アメリカでの宿泊はホームステイでしたね。
私はチェリーコーク(コーラのチェリー味)が苦手だったのですが、なぜか私の好物と思われて、毎日激甘なチェリーコークが出てきた。こっそり流して捨ててましたけど(笑)。

Q本格的な音楽活動はいつから?
高校卒業後、大阪音楽大学の器楽専攻に進みました。
ここでも前田先生のもとで学ぶことになったのですが、先生の勧めで、先生自身が主宰されている「ミ・べモルサクソフォンアンサンブル」(以下、ミ・べモル)に最年少で入団しました。

メンバーは前田先生率いる18人。私は最年少だったので、みんなが先生みたいな感じでした。好奇心旺盛なメンバーばかりでしたよ。
在学中含め、スペイン、タイ、カナダなどに演奏旅行に行ったのですが、全てミ・べモルのソロコンサート。どこの国や地域に行ってもいっぱいのお客様が来てくれたので、本当嬉しかった。

海外移動中は、修道院に泊まったり、ホームステイしたり。国によって違う景色が美しかった。メープルの葉も空気も全てがキレイでした。
日本とは湿度が違っている知らないところで吹いたり、残響や隣の人の音を聞く感じが違ったり。もう全てが楽しくて、毎日が修行な感じでした。

Q沖縄に来たのはいつ?きっかけは?
2006年に妹と一緒に沖縄に移住しました。30歳になった節目でした。
今まで、滋賀県を拠点に京都や大阪などで演奏活動や講師の仕事をしていたのですが、この移動する体力も心も追いつかなくなって、音楽以外の別のことをしたくて、沖縄に来ました。

沖縄を選んだのは、私は海がないところで育っているので、海があるところに来たかったから。「癒やされたかった」という思いもあります。
移住以前も旅行で沖縄に来ていたので、沖縄の魅力にひかれて、ふらっと沖縄に来た感じ。


Q沖縄でのsax人生はどうやってはじまったのか?
私が以前に所属していた「ミ・べモル」は、sax界では有名なグループだったんです。
だから、沖縄に移住してまだ間もないころ、「沖縄にミ・べモルの人がいる!」と、ミ・べモルのファンが私のレッスンを受けに来てくれて。

私のほうはといえば、沖縄は全く右も左も知らない土地。レッスンの相場がわからなくて、沖縄のプロsax奏者さんにコンタクトをとって色々教えてもらったり、ドキドキあわあわ。

またYAMAHAのsax講師の赤嶺さん、ジャズTP奏者・新崎純さん、ジャズTP奏者・照屋唯七さんがいろいろと繋げてくださって、現在の「スーパーホーンカーズ」や「OJAジャズオーケストラ(沖縄JAZZ協会)」で演奏する機会に恵まれました。

現在はYAMAHAのsax講師をつとめ、「OJAジャズオーケストラ」、「真栄里英樹BIG BAND」「YKシンギンオーケストラ」に在籍しています。

前田さんの相棒、柴田学さん。
演奏活動のなかで、バー「パピヨン」で働いていた柴田さんと知り合い、結婚。現在、柴田さんが経営する「Live Music Bar SOUND M'S」(以下、SOUND M'S)のスタッフとして、前田さんもほぼ毎日お店を手伝います。

2人の愛息子、長男・リュウノスケくん(小3)、次男・コタロウくん(小1)。
パパと一緒に SOUND M'SのオリジナルTシャツを着用♪

Q子育ての音楽への影響はありますか?
子育てが音楽に生かされているかはわかりませんが、生かされていたら良いなぁと思います。息子たちが小学校入学前は、PTA代表として、よく幼稚園やこども園で演奏しました。
息子は2人とも恥ずかしがり屋ですが、その時ばかりは、皆に注目されるのも気にならない様子でしたね。親を少しは自慢に思ってくれていたかなぁ~(笑)。


Q子育てと音楽の両立の秘訣は?
レッスン、演奏、リハーサルはほとんど夜。私の場合、息子たちの離乳食がはじまる前から夜間保育に預けていました。長男が幼稚園に通うころから、私の妹に本格的にベビーシッターとしてお願いしていました。私が安心して音楽の仕事ができるのは、妹のおかげです。
本当に助かっています。


Qいつもsaxを吹くときに大切にしていること
聴きに来てくれるお客様をよく見て、考えています。過剰にお客様を楽しませないように心がけています。自然体が一番。でも何より、自分が楽しむようにしています。

SOUND M'Sの店内

幼少期のエレクトーンからはじまった前田さんの音楽人生。
「沖縄で音楽はやらないつもりだったけど、いつのまにか音楽に戻された。
やっぱり私は音楽が好きなんでしょうね」と、優しく微笑みます。



〈前田さんに会える場所〉
Live Music Bar SOUND M'S
沖縄県那覇市久茂地3-29-68
久茂地産業ビル3F
営業時間:21:00~25:00(ライブは20:00or21:00startが多め)
休日:不定休
電話:090-1067-8055