沖縄県・那覇市通堂町出身、昭和10年生まれ。
私は、8人きょうだいの長男です。姉3人、妹3人、弟1人。
私は、母の実家の那覇市通堂町の神山旅館に住んでいましたので、私もそこで生まれ、(那覇)天妃小学校小学3年生の1学期まで那覇にいました。
戦争の避難先として、祖母(父方)がいる国頭村比地に移り住みました。転校先の辺土名小学校奥間分校の茅葺き教室のすぐ前には、きれいなせせらぎがあり、見事な祭温松が囲んでいました。
私の音楽のはじめは、草笛(くさぶえ)。小学生の時は、そこら辺の道端の草で草笛を作って、学校帰りに草笛ふきながら帰りました。それが、私の音楽のはじめ。
父が古典音楽をやっていたので、物心付く前から常に音楽が私の側にあった。父から直接三線を習ったのは高校生からですが、父の影響が大きいですよね。
あと天妃小学校在学時に、毎朝の朝礼の国旗掲揚の時は、外間永律先生がトランペット(以下、TP)を吹きましてね、私はいつもその音に魅了されていた。だからいつの日か、「いつか先生のようなTP奏者になりたいなぁ」と夢見ていました。
Q戦争経験者なのですね。
はい。私が小学校3年生のときに戦争がはじまって、4年生のときに戦争が終わった。
私は小学校3年生の1学期までは那覇の天妃小だったので、母の実家の神山旅館の一部を借りて家族で住んでいました。建物1階の角でしたよ。
劇場が2つあって、船がよく来る場所だったから、旅人がよく泊まりに来ていました。たくさん旅館が立ち並ぶところで、それぞれのムラ(市町村)の出身者の同郷同士で経営していたように思います。
(戦争が)「今度は日本に来るぞー」ということになって、避難するため、私とすぐ上の姉2人は、家族より先にやんばる(沖縄北部)に避難しました。
やんばるの国頭村比地には祖母(父方)が住んでいたので、そこに避難するため、姉2人と僕は家族より早目に那覇から出ました。あの頃は飛行機に乗れる時代じゃないから、みんな船。
でも船は国頭には着かないから、歩いたり、トラックに拾われたりして、どうにか自力で やんばるに着きました。
戦争のことは、よく覚えていません。
ハブ、イノシシより戦争の方が怖かったのは覚えています。
国頭の上空を飛行機が飛んでいて、日本兵だと思ってワーイと応援したら、家を撃ってきた。畑・田んぼの真ん中に外国人の立派な家があったから、それを攻撃したんです。
軍の何かの施設と思われたかもしれんね。他の民家とかは攻撃せず、また飛んで行きましたよ。
私たち家族は、最初は、シマンホーヤーの茶畑で避難生活をしていましたが、米軍が来たので、茶畑を離れてさらに深い山奥に避難しました。父から「命の次に大切な二丁入りの三味線箱」を守るように言われていまいた。
水は、森の中だから豊富でした。食べ物は、早朝か夜遅く、姉と母が芋掘りに行きました。「正栄は捕まるから隠れていなさい」と言われていました。兵隊は、子どもと女性は見逃してくれた。
Q戦後の音楽生活はどうでしたか?
小学校の音楽の時間は「コールユーブンゲン」を中心に習いましてね。それが私の音楽の基本をつくりました。
中学校では草笛隊やハーモニカ隊に入りました。金管楽器などは何もありませんでしたが、やんばるの自然には楽器(草笛)がどこにでもあった。草笛音楽隊は運動会を大いに盛り上げましたよ。この音楽隊の経験が、私の「楽隊」としての音楽人生のはじまりです。
私たちの学校の校舎の中には、米軍払い下げの折りたたみ式オルガンが1台ありました。学校唯一のオルガン。知花芳子先生に唱歌、合唱を教わりました。
今でも鮮明に覚えているのは、辺土名地区中学校音楽祭に出場し、「サンタルチア」、「花」を歌ったことです。あの時はじめて、会場の辺土名高校で「グランドピアノ」というものを見た。
Qドラムの話がなかなか出てきませんが、まだまだ先ですか?
はい、まだ先です(笑)。高校は辺土名高校に入学しまして、ブラスバンド部に入部しました。米軍払い下げの楽器の中に憧れのトランペットを見つけ、先生にお願いしたのですが、結局トロンボーンになりました。
Qまさかのトロンボーン!(笑)。ドラムの昌栄さんから想像も付きません!
高校1年の2学期から那覇高校に転校し、ブラスバンド部に入部しました。今度こそTP(トランペット)に当たると思ったんですが、またトロンボーン(笑)。3年生になってようやくTP。
ブラスバンド部で、琉球大学主催の全琉高校ブラスバンドコンテストに出場しましたら、3年連続1位を獲得しました。私も、友利寛長先生のピアノ伴奏でトランペット独奏をしました。
ブラスバンドの楽器は、全て米軍の払い下げ。Tb(トロンボーン)、TP、SAX(サックス)の楽器がありましたね。
当時、ブラスバンド部には卒業後プロになった1年先輩の大嶺正夫、又吉眞達、高江洲朝順らがいましね、同期は友寄隆生、小浜健、山川高宏、岸本直、宮平知徳、平良梯子。1つ下の学年には新崎純、石嶺弘實、金城吉雄などがいて、全盛を誇っていた。
Q JAZZのはじめは、この頃ですか?!
そうですね、今みたいなJAZZをやりはじめたのは、高校2年生のときです。
ブラスバンド部の先生、兼村寬俊先生の「兼村音楽学校」に1年通って作曲を学んだり、先生の勧めで(米)軍クラブのバンドのコンボ(少人数演奏)でプレイ(演奏アルバイト)をするようになりました。
「楽器は何でもいいから、ただ楽器を構えるカカシでいい」と言われて、兼村先生がバンマス(バンドマスター)を務める「キングバンド」にギターで入団したのが最初。学校でギターを習っていたから、ギターは少しは弾けていた。
3年生で念願のTPになってからは、1st(1番の高音担当)TPは、故香村弘史さんでした。故香村英史氏の父です。私は2ndのTP。香村弘史さんは、軍楽隊出身の先輩ですから、ときどき私は音ミスをすると足を蹴られたりして、軍隊式でバンドマンとしての基礎を学びましたね。
Qトロンボーンにトランペット、ギター。器用ですね!
先生に言われるままやっていただけです(笑)。先生も、みんなの唇や手や身長などを見て楽器を決めていたと思います。
私たちは、1夜で2ヶ所の仕事が入るときはバンドも二手に分かれたのですが、ある日、兼村先生が「TPは1人でも間に合うからドラムの席に座っていなさい」と私に言いましてね。はじめてドラムの席に座った。
Qあ、ようやくドラム!(笑)
はい。兼村先生から「ドラムの音は出さないでいい。カカシ(座っているだけ)でいいから」と言われましたが、勝手にドラムを叩いたら「TPより素質あるね」と先生に褒められましてた。その一言が僕を本気にさせた。それからずっとドラム。
幼稚園~小学校低学年のころ村芝居なんかで島太鼓を叩いていたから、リズム感があったんでしょうね。僕のドラムは、今でもJAZZのスウィングと島太鼓が共鳴している。
そのころ、琉球ホテルやコパカバーナNCOクラブ、マチナトサービスクラブなんかで演奏しましたが、学校のバンドのドラム(パーカッション)はみんな女生徒。だから私は学校ではドラムをやっていません。僕はドラムを直接誰からも習ったことはない。
フィリピンのミュージシャンや、技術導入のために日本本土から来たミュージシャンの叩く姿を見て、自分で学びました。
牧港サービスクラブにて
はい。高校のバンドは、学年ごとにバンドを結成していました。
米軍での演奏は、夜の8~10時の3ステージ。翌日は学校ですから、皆が登校する前の早朝からブラスバンドの練習をした。若いから体力がありましてね、全然眠くなかった。
軍バンドで稼いだお金は、三線を買ったり、姉の学費にしました。
姉が「本土の美容師学校に行きたい。でもお金がないと行けない」って言っていたもんだから、「僕が稼ぐから」と言って、アルバイト代を渡したんです。
姉は、学校を終えて帰沖したら美容室をOPENさせましてね。その時の従業員が、僕の妻(笑)。
Qあら!(笑)。そのあとはJAZZ世界にどっぷりでしょうか?
どこかに所属とかじゃなくて、2、3ヶ月でバンドが変わったり、店からバンドがクビになったら他バンドに行って、という生活。
幾つかのバンドを世話するマネージャーがいたので、その人が僕の次のバンドを探してくれた。
あの頃は携帯電話なんてありませんから、マネージャーの家に各バンドバスター(以下、バンマス)が出入りして、話し合いをしていました。今でいう音楽事務所みたいな感じでしょうね。
QプロJAZZをはじめたころの話をもう少し聞かせてください。
僕のJAZZは、最初はコンボ。楽譜は無かったですね。
「いつかフルバンドでやりたい」という夢があったので、バンマスや周りの人に「お願いします」と頼んでいた。そしたら、フルバンドのドラム奏者(ドラマー)が病気になって欠員が出たから、入れました。
フルバンドは、フィリピンバンドや本土のバンドとか色々ありましたが、楽譜があった。
そのころ、日本から有名なジャズメン(男性JAZZ演奏家)がイベント公演で来沖にやってくることも多かったですね。大スターのドラマー・白木秀夫のグループがグランドオリオン劇場で公演後、ジャムセッション(即興で音楽交流)が行われ、私もドラムを叩きました。
懇親会で酒を酌み交わしているときに、ピアノの八城一夫さんから「東京に出てきませんか。あなたの腕なら十分やっていけます」と誘われましてね。日本を代表するジャズマンに認めてもらったことは、この上ない私の喜びでした。
だが、もうその時には結婚して家族も子供もいて、沖縄のジャズ界で後輩を育てる義務もあるし、沖縄にいても最高のジャズができることを証明したくて「考えさせてください」と言い、結局、断った。
あのとき東京に行ってたら、私の人生は大きく変わったかもしれないですね。
私は25歳で結婚したのですが、いま、6名子供(女3人・男3人)、孫15人ぐらい、ひ孫は1人います。
そうですね、復帰後、米軍が本国に帰り、各米軍クラブがなくなったから私達の演奏もなくなった。仕事場はホテルや喫茶、ライブハウス、ホテルラウンジ等に移りました。
でも夜は週に2~3回ドラム叩いてましたよ。昔は、カラオケのBGMは生バンドがやっていましてね。キャバレー、カラオケハウスなどで演奏していました。
国頭の仲間がやっていた味噌の卸屋で働かせてもらったり、独立して自分の味噌の会社「早川商事」をOpenさせましてね。5~6年はやりましたかな。「美味しい」と評判を頂いたが、いろんな味噌が本土からやってきて、競争に負けて店を閉めた。
そのあと2年ぐらい、那覇の曙、海の近くのレストランをやりました。それからまた2年はタクシー運転手。妻の兄がタクシー会社の役員だったもんだから。
平成4年 野村流伝統音楽協会より教師免許状を受賞。平成15年に同協会師範免許受賞。
平成11年 琉球新報古典音楽芸能コンクール最高賞受賞
平成21年 沖縄タイムス芸術選賞功労賞受賞
平成25年 野村流伝統音楽協会功労賞受賞
平成30年 沖縄県文化功労者賞受賞
高校生のときにはじめて父親から三線を習いまして、平成10年ごろから自分の三線教室「上原昌栄古典音楽研究所」を開きました。最初の生徒は、同じタクシーの仲間。それから友達を中心に1人、2人と増えて、15人ぐらいはいたかな。今は10人。
あれから、昼は三線、夜はドラムの生活に落ち着きましたね。
三線を通じて、これからも先輩達が残してきた沖縄の三線の素晴らしさを継承していきたいです。
世界に誇る琉球伝統音楽とジャズ音楽とのコラボレーションができる私は、世界一幸せと思います。
1979年から琉球古典音楽を本格的に学び、以来、古典音楽とジャズの融合を目指して音楽に取り組んできました。このコラボレーションが実現した公演は、「アジア太平洋民族音楽祭」inシンガポール(日本代表)、「ジャズイン浦添」、「上原昌栄音楽の道50年」(那覇市民会館)などがあります。
Q三線とドラムに共通していることはありますか?
共通しているのは「音楽の楽しさ」です。
人が喜んでくれる気持ちが楽しい。
75歳にて初アルバム「ウチナービート」をリリース
全国紙にも掲載されました
リズムで音楽ができて、一緒にプレイする人たちと気持ちが融合する。
音楽が出来ていることが、ただただ嬉しい。
音楽は音と心のふれあい
これはぜひ書いて下さい。
クラリネット奏者のスタンリーは、20年ぐらい一緒にやっていますが、彼は最初、寓話(ジャズ店)でクラシックをやっていたんです。「JAZZをやりたい!」というもんだから、一緒にやるようになった。
外国人との音楽は楽しいですよ。
それぞれの国の持ち味もあるし、人の持ち味も音楽に出る。
国は違うし、音楽の解釈も違うはずだけど、一緒にやっている一体感がたまらない。
「音と音がつながりあう」ことが気持ちいいですね。
音楽は音と心のふれあい、と思いますね。
QJAZZの魅力を一言で表すと?
「自分が楽しめて聞いている人も楽しめる」こと。
これからも、聞いている人が楽しんでくれる音楽を奏で続けたい。
これまでもこれからも、
沖縄の伝統を生かした「ウチナージャズ」を追求していきたいです。
【参考】デビュー時を中心とした上原昌栄さんJAZZ歴史〈略歴〉
1953 「キングバンド」で米軍クラブにはじめて出演
1955 ドラマーとして一人立ちするために「キングバンド」退団。クラブ「大宝」(旧三越地下)に入団
1956 コロンビアバンド入団
1957 高岡氏のバンドに入団。バンド「ジョーカースクインテット」結成。
1958 クラブオリオン出演。借金をしてはじめて自分のドラム一式を購入。
1959 マチナトNCOクラブのバンド「スターライターズ」に呼ばれる。
「サーフサイド」、「NCOクラブ TOP3」、「EBBE TIDE CLAB」に1週間のローテーションで出演
1960 「ブルーノート」バンドでV.F.Wオーディションを受け、見事合格。V.F.Wクラブ専属バンドへ。
1998 第1回音楽ユニオン沖縄くもじコンサート出演、与世山澄子リサイタル参加、「ジャズイン浦添」出演
1999 スウイングジャズライブ「バナナハウス」出演、軽井沢演奏旅行(古堅雄三とエスクァイヤーズ)
2000 ライブハウス「てんとう虫」出演、サミット関連コンサート出演
※1998年~現在まで、約年8回~10回の大規模なコンサートに出演
【file2.】行き着く先は「楽しく」~プロJAZZトランペット奏者 喜納正香
【file.1音楽は第一に自分が楽しむ!】~プロSAX奏者 前田妙子さん